第228回「歴史と人間」研究会

日時: 2014年10月18日(土)14時より *土曜日ですので、ご注意ください。

場所: 一橋大学西キャンパス本館特別応接室
(キャンパス地図9番 http://www.hit-u.ac.jp/guide/campus/campus/index.html
*いつもの職員集会所ではございませんので、ご注意ください。

報告: 原田 桃子氏
タイトル: 「イギリスにおける移民政策の展開―1971年移民法の制定過程を中心に―」

要旨:
 本報告では、第二次世界大戦以降のイギリスで展開された移民政策について、特に1971年移民法(the Immigration Act, 1971)の制定過程を取り上げる。
 第二次世界大戦以降のイギリスでは、国内の戦後復興に伴う労働力不足を補うように、様々な国や地域から移民が流入し、多民族社会へとさらに変容することとなった。流入移民の中でも、植民地や新コモンウェルス諸国からの移民は、肌の色や生活習慣の違いから、イギリス社会にとって異質な存在として認識され、「カラード移民(coloured immigrants)」と呼ばれた。そして、彼らに対する人種差別的行為だけでなく、彼らの存在そのものがしばしばイギリス社会の国内問題として取り上げられていた。
 こうした問題に対して、歴代のイギリスの内閣は流入数抑制を目的とした移民政策を展開した。それにより、植民地や新コモンウェルスからの移民は、1948年イギリス国籍法(the British Nationality Act, 1948)が保証していた「母国」イギリスへの自由入国、定住の権利を奪われていった。このようなイギリスの移民政策は人種差別的という批判を受けており、その中でも1971年移民法はその内容から、特に人種差別的だとみなされている。しかし、先行研究においては、1971年移民法のその人種差別的性格が強調されるあまり、なぜそのような法律が制定されたのか、具体的な制定過程があまり解明されてこなかった。
 そこで、本報告では、1971年移民法の制定過程について、エドワード・ヒース保守党内閣での議論から検討する。そして、ヒース内閣が移民問題をどのように認識していたのか、多民族社会にどのように対応しようとしていたのかを解明したい。


* 次回は11月15日(土)、清水祐美子氏によるご報告の予定です。


第227回「歴史と人間」研究会

日時: 2014年9月27日(土)14時より *土曜日ですので、ご注意ください。

場所: 一橋大学西キャンパス本館特別応接室
*いつもの職員集会所ではございませんので、ご注意ください。
(キャンパス地図8番 http://www.hit-u.ac.jp/guide/campus/campus/

報告: 志田 達彦氏
タイトル: 「『カール大帝かシャルルマーニュか』—ヘルマン・ボーテ(1450/60?-1520?)の世界史記述におけるカール大帝像と帝権移転論—」

要旨:本報告は、後期中世の都市における帝国(imperium / Reich)観念を考察するための一助となることを目指すものである。
 中世の人びとにとって、ローマ帝国ならびに皇帝権は、最も重要な概念の1つであった。帝国が自らの生きる時代にも存在し、そして世界の終末まで存続することを、キリスト教的な歴史観のもとで論じたものが「帝権移転」(translatio imperii)論である。この理論は、天地創造から歴史を語る「世界史」と分かちがたく結び付いている。中世の帝国に生きる歴史家たちは、しばしばこのジャンルのテクストを執筆した。
 中世の帝権移転論では、歴史上4つの世界帝国(Weltreich)が存在し、その第4のものがローマ帝国であり、この帝国と皇帝権は、さまざまな民族に移転され、いまなお受け継がれていると考えられた。西ヨーロッパのヴァージョンでは、800年のフランク王カールの皇帝戴冠によって、東ローマ帝国の皇帝権が西のフランク王国に移転されたとされる。
 さて、次第に「ドイツ人」の支配領域に限定されていく帝国では、東から西への帝権移転をもたらしたカール大帝の位置付けは、微妙な問題であり続けた。中世の「世界史」叙述においては、「ドイツ人」が帝国を担う契機を、フランク人カールの戴冠ではなく、カエサルと「ドイツ人」との同盟にまで遡らせることがあった。また、武勲詩や物語のなかで、カール大帝は「フランス人」であるとされることもしばしばであった。「この皇帝は、ドイツ人であったのか、それともフランス人であったのか—このことをドイツ人は12世紀以降常に問い続けなければならなかったし、実に1935年になってもまだ議論は繰り返され」、「ドイツ史において20世紀にいたるまで、奇妙なほど不安定な位置しか占めることができなかった」(ハインツ・トーマス)という。
 以上の議論を踏まえた上で、本報告では、ハンザ都市ブラウンシュヴァイクのヘルマン・ボーテ(1450/60?-1520?)の世界年代記を取り上げ、ボーテの帝権移転ならびにカール大帝の位置付け、そして彼の「世界史」観においてこれらが持つ意味に迫りたい。
 

* 次回は10月18日(土)、原田桃子氏によるご報告の予定です。


第226回「歴史と人間」研究会

日時: 2014年7月27日(日)14時より

場所: 一橋大学西キャンパス職員集会所
(キャンパス地図6番 http://www.hit-u.ac.jp/annai/campus/index.html

報告: 川喜田 敦子氏
タイトル: 「二〇世紀の戦争と住民移動を考える―引揚げの国際比較のための試論―」

要旨:20世紀には、過酷な条件下での住民移動とそれに伴う暴力行使、ポグロム、大規模殺害、組織的殺害など、特定の民族集団に対する暴力が大規模化しかつ頻発した。その多くは戦争にともなうものである。今回は、そのなかでも領土変更をともなう戦後処理の一環として行なわれた住民移動の例として第二次世界大戦後の東欧からのドイツ系住民の移動を取り上げ、同時期の日本の「引揚げ」との比較を念頭に、移動の決定過程、戦後処理ならびに地域秩序再編との関連、移住ならびに統合をめぐるナラティヴの形成等に注目して論じ、20世紀の住民移動、とくに領土変更にともなう住民移動の国際比較の枠組みを考えるための試論としたい。

* 次回は9月27日(土)、志田達彦氏によるご報告の予定です。


第225回「歴史と人間」研究会

日時: 2014年6月15日(日)14時より

場所: 一橋大学西キャンパス職員集会所
(キャンパス地図6番 http://www.hit-u.ac.jp/annai/campus/index.html

報告: 内山 由理氏
タイトル: 「前世紀転換期のロンドンの学校と学校給食」

要旨:本報告では、前世紀転換期のイギリスにおける、学齢期の児童を対象にした学校の福祉事業について考察する。とりわけ自由党政権(1906−1914)の社会政策の一つであった1906年学校給食法The Education(Provision of meals) Actの成立前後のロンドンをとりあげ、都市の貧困問題の解消に向けて、当時新しく求められた学校の在り方について検討したい。学校給食法については、多くの先行研究が一部の貧窮児童に公費によって無償で食事の提供を認めたインパクトを指摘してきた。その一方、その実態がヴォランタリーな慈善活動を主体とした児童の福祉事業であり、学校が貧しい児童のソーシャル・ワークの拠点として整備された点は注目されていない。本報告では最近の福祉の複合体史研究の成果を取り上げながら、同法を契機として学校が学齢期の児童の福祉と教育の役割を担うようになったプロセスについて、個別の学校と慈善団体の関係やロンドン学務委員会の議論、同法成立後にロンドンに設置された児童保護委員会の活動を事例に分析するつもりである。


* 次回は7月27日(日)、川喜田敦子氏によるご報告の予定です。


第224回「歴史と人間」研究会

日時: 2014年4月19日(土)14時より *土曜日ですので、ご注意ください。

場所: 一橋大学西キャンパス職員集会所
(キャンパス地図6番 http://www.hit-u.ac.jp/annai/campus/index.html

報告: 阿部 安成氏
タイトル: 「直弼と首:1930年代の井伊直弼とその後」

要旨:
 本報告では、井伊直弼の銅像をとりあげます。ひととしての直弼は1860年に江戸桜田門外で死にました。没後五十年を経ようとするところで、1909年に横浜にその銅像が建てられ、翌1910年には彼の生地である彦根にも銅像が立ちました。横浜の直弼銅像については、かつて『記憶のかたち』(柏書房、1999年)で論じました。今回の報告では、その横浜の直弼銅像について「その後」にわかったことをふまえ、銅像というフィギュアが、まるでその像主(像のモデル)そのもののように扱われるようすをとりあげ、歴史を考えるときの「表象」という論点を示したいとおもっています。
 とりあげる事象は、おもに、1930年代の横浜での直弼銅像襲撃事件です。直弼の銅像の首を落とそうとした集団が逮捕された、というさして大事件ではないものの、このことが直弼銅像とひいては直弼をめぐる歴史の一部をかたちづくってゆきます。
 

* 5月は学会シーズンのため、お休みです。次回は6月15日(日)、内山由理氏によるご報告の予定です。


第223回「歴史と人間」研究会

日時: 2014年3月9日(日)14時より

場所: 一橋大学西キャンパス職員集会所
(キャンパス地図6番 http://www.hit-u.ac.jp/annai/campus/index.html

報告: 梅原 秀元氏
タイトル: 「『治療と絶滅』から『過去の克服と改革』へ―20世紀ドイツにおける精神医学の歩み」

要旨:
 本報告は、20世紀ドイツにおける精神医学の歩みを、とくに医学と政治の関係に焦点をしぼり、最近30年間のドイツなどにおける諸研究にもとづいて詳述するものである。その際、精神科が、医学において一つの科として認められるために、医学や社会のほかの領域とどのように結びつこうとしたのか、そして、このことが精神医学やその患者や関係者、そして社会にとって何をもたらしたのかという2つの問いを扱う。このことによって、ドイツ精神医学が19世紀後半以降医学および社会において確立していく過程、精神医学全般と政治・社会との相互関係、そしてナチス・ドイツの下での最悪の結果―患者に対する強制断種と安楽死―を示す。
 さらに本報告は、ドイツ連邦共和国―ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)については本報告ではとりあげることができない―の精神医学と人々が、過去とどのように向かい合い、対話したのかを素描する。最後にこうした努力が21世紀においてもなお、ドイツ精神医学の重要な基礎の一つであることを示す。
 

* 次回は4月19日(土)、阿部安成氏によるご報告の予定です。


第222回「歴史と人間」研究会

日時: 2014年2月16日(日)14時より

場所: 一橋大学西キャンパス本館特別応接室
*いつもの職員集会所ではございませんので、ご注意ください。
(キャンパス地図8番 http://www.hit-u.ac.jp/guide/campus/campus/

報告: 川 亜紀子氏
タイトル: 「19世紀アルザスユダヤ人における教育と『再生』」

要旨:
 フランス革命のさなかに「解放」され市民権が与えられたユダヤ人に対しては、「ユダヤ教徒のフランス人」として「再生」させることがユダヤ人指導者層にとって急務とされた。もともとユダヤ人にとって教育は非常に重要なものであったが、「再生」を実現させるためには、新しい形の教育、とりわけ世俗的教育を施すことが有効だと考えられた。中でももっとも「再生」が必要だとされたアルザスユダヤ人に対しては、ナポレオンによって創設されたユダヤ教徒の監督機関である長老会のイニシアティヴの下、1820年代から世俗的教育の普及が目指された。それは、同時期に進展していたフランスの教育制度の改革を受容する形で行われた。
 本報告では、実際に設置された学校の性質や教育内容などについて、学校規則や各種書簡といった史料を通じて、長老会の目指していたユダヤ人教育とはどういったものであったか、19世紀半ばくらいまでを対象にして考察する。そして、アルザスユダヤ人が「フランス人」として「再生」されるために、どのようなことが必要と考えられていたか明らかにしていきたい。
 

* 次回は3月9日(日)、梅原秀元氏によるご報告の予定です。


第221回「歴史と人間」研究会

日時: 2014年1月25日(土)14時より

場所: 一橋大学西キャンパス佐野書院小会議室
(キャンパス地図23番 http://www.hit-u.ac.jp/guide/campus/campus/
*国立駅南口から大学通りを南下し、西キャンパス正門も通り過ぎて、最初の角を右折したところが佐野書院です。

報告: 岩下 誠氏
タイトル: 「国民協会の設立過程―19世紀初頭イングランドにおけるヴォランタリズムと公教育」

要旨:
 「国教会の教義に基づいて貧民教育を促進するための国民協会」は、1811年にイングランド国教徒によって設立された任意団体である。この国民協会は、非国教徒を中心として1808年に設立された王立ランカスター協会(後の内外学校協会)とともに、19世紀を通じてイングランドにおける公教育制度の相当部分を担い続けた。
 国民協会の設立という事態は、少なくとも次の二つの点において、単に教育史というだけではなく、イギリス史上においても重要である。第一に、国民協会は19世紀末に至るまで、民衆教育を供給する最大のエージェントであり、イングランド民衆教育史において主要なアクターであり続けた。この教育領域におけるヴォランタリズムは、国家介入による公教育制度の整備と対比され、宗派主義の残存と公教育制度の阻害要因として理解されてきた。しかし近年福祉複合体論などによって福祉領域におけるヴォランタリズム評価の再審が進んでいる事態を考慮するならば、国民協会の設立を単なる宗派主義の残存と見なすわけにはいかない。国民協会の設立は、18世紀末から1830年代にいたる期間において漸次的に進行した道徳・制度改革の一部をなしており、その検討を通じて、国家、教会、市民社会相互の関係性の変容を明らかにする有力な手がかりとなりうる。
 第二に、国民協会の設立過程を検討することによって、民衆教育における保守派の役割を明らかにすることができる。公教育制度の発展を中産階級急進主義者と教育要求を持つ労働者階級との葛藤として理解するマルクス主義の枠組みに影響されるかたちで、民衆教育における保守派の重要性はしばしば軽視されてきた。しかし、とりわけ国教徒を中心とした保守派の存在は、イングランド公教育史、ひいては同時代の制度・道徳改革を理解する上で欠かせない論点である。もっとも、国民協会に結集した保守派は、決して一枚岩の存在ではなかった。国民協会の主流派が超保守派=高教会派であったことは確かだが、高教会派の意向がそのまま国民協会の性格を全面的に規定したわけではない。国教会が高教会派の牙城であった既存の任意団体「キリスト教知識普及協会」とは別に、新たに教育振興任意団体を設立しなければならなかったという事実は、単純な保守反動という従来の解釈ではなく、国教徒内部の対立・葛藤・調整の結果として国民協会の設立を解釈しなければならないという視点を要請している。
 そこで、本報告ではこれまで解明されてこなかった1811年10月の国民協会の設立以前における国教徒たちの葛藤に主たる焦点を当てつつ、国民協会設立に関する新たな解釈を提示する。具体的には、通説が論じるように国民協会が高教会派のイニシアティヴによって設立されたのではなく、むしろ高教会派の計画が挫折し、批判と調整を受ける中で国民協会が新たに設立されたということを、複数の史料から示したい。さらに、こうした「挫折した高教会派のプラン」を念頭に置いた場合、国民協会の設立に対する従来の教育史のスタンダードな解釈が修正されるべきであることを示し、あわせて同時代のアイルランド公教育改革との比較も視野に入れながら、名誉革命体制から19世紀自由主義国家への転換とヴォランタリズムという、より広い歴史的文脈へと議論を接続していくことを試みたい。

* 次回は2月16日(日)、川亜紀子氏によるご報告の予定です。

第220回「歴史と人間」研究会(共催:現代史研究会)シンポジウム

地域史再考―ドイツとフランスの事例から―

日時: 2013年12月15日(日)13:00〜16:30
* 通常の例会とは開始時刻が異なりますので、ご注意ください。

場所: 一橋大学西キャンパス佐野書院大会議室
(キャンパス地図23番 http://www.hit-u.ac.jp/guide/campus/campus/
* 下記の地図で場所及び駅からのルートをご確認ください。



プログラム:
趣旨説明(13:00-13:10)
森 宜人(一橋大学)

報告1(13:10-13:50)
森村 敏己(一橋大学)「ヴァンデ:風化を拒む過去」

報告2(13:50-14:30)
割田 聖史(青山学院大学)「地域から地方へ―1848年革命直後のポーゼン州をめぐる議論から」

休憩(14:30-14:45)

コメント1(14:45-15:00)
川喜田 敦子(中央大学)

コメント2(15:00-15:15)
見市 雅俊(中央大学)

報告者からのリプライ・全体討論(15:15-16:30)

司会・進行
森 宜人(一橋大学)

忘年会(17:00〜20:00)

シンポジウムの趣旨:
 こんにち、日本の西洋史学において、地域を単位として分析を進める方法は自明のものとなっている。また、1990年代末に山川出版社より刊行された『地域の世界史』シリーズ全12巻にみられるように、地域史研究の方法は西洋史のみならず、歴史学全般において市民権を獲得しているといってよい。
 地域史研究の手法は、社会史の台頭と軌を一にしつつ、国民国家や、近代的価値観・思考方法の相対化に寄与してきた。とりわけ、中央からの視点ではすくい取ることのできない、各地域固有の慣習や文化的ロジックを明らかにし得ることが地域史研究の効用である。
 本シンポジウムでは、こうした地域史の視角から「中央と地方」の関係性に光を当て、その関係性の中で地域のアイデンティティがいかにして形成されてきたのかを検討する。対象となるのは、フランス革命期に反革命の象徴となったヴァンデと、19世紀のポーゼン州である。
 そもそも、西洋史学における地域史の方法の歩みを振り返ると、その起源は1960年代の増田四郎による提言にまで遡る。18/19世紀以来、普遍性を有していると思われたヨーロッパ中心史観が動揺する中で、「特殊ヨーロッパ的なるもの」の追求を通じてヨーロッパ史の再定置を図るために着目されたのが、地域史の方法だったのである。それから半世紀が経った21世紀初頭の現在、地域史研究の方法がこれからの西洋史学にどのような貢献をなし得るのか、換言すれば、いかなる目的をもって地域を分析単位とする研究を行うのか、ということを問いかけ直すのが本シンポジウムの目的である。

* シンポジウム終了後、同じ会場において恒例の忘年会(会費1,500円)開催いたします。こちらも奮ってご参加ください。食べ物や飲み物の差し入れも大歓迎です。

第219回「歴史と人間」研究会

日時: 2013年11月17日(日)14時より

場所: 一橋大学西キャンパス佐野書院1階 小会議室 *西キャンパス内からは行けませんので、ご注意ください(西キャンパス正門を通り過ぎ、そのまま大学通りを南下して右折してください)。
(キャンパス地図23番 http://www.hit-u.ac.jp/guide/campus/campus/

報告: 加藤 鉄三氏
タイトル: 「ヨセミテの魂?、ジョン・ミューアの精神:来るべき法制150周年/死後100年に向けての予備考察」

要旨:
2014年はアメリカ環境史上のいくつかの記念の年に当たる。その1つが150周年を迎えることになる1864年6月成立の The Yosemite Grant Act(ヨセミテ「州立公園」法)である。同法
が記念される理由は、アメリカが世界に誇る自然保護システムである国立公園の理念上の先駆者として見なされていることにある(名称上の世界最初の国立公園は、1872年設立のイエローストーン国立公園)。そのこと自体が間違いではないにしても、この法律によって直接的に the Yosemite Valley and the Mariposa Big Tree Grove Grant と呼ば
れる「自然保護」区が設立されたわけではない。カリフォルニア州によるその設立は2年後のことであり、1905年に連邦返還を州が決定し、翌1906年にヨセミテ国立公園(1890年設立)に統合されることでその役目を終えた。
1868年にヨセミテ渓谷を訪れ、同地内に一時期居住し、後に「国立公園[運動]の父」、「ウィルダネスの聖者」に称されることになるのが、死後100年を迎えることになるジョン・ミューア(1838年−1914年)である。ミューア研究が文書の開示によって1980年代以降に急速に進行した一方で、彼が1890年のヨセミテ国立公園運動と同時に「州立公園」の連邦返還=国立公園への統合も主導し始めたこともあり、「州立公園」行政の評価は低く、前述の基本的事実さえ理解していない研究者(もどき)の記述さえも散見される程である。
そこで本報告では、未交換史料を通して細部をつつくのではなく、主として積み上げられてきた研究(ヨセミテ研究とジョン・ミューア研究/伝記の合計で30冊以上)と基礎資料を基に、そもそもヨセミテとは何であり、その保護/保全とは何であったのか、ジョン・ミューアの活動と彼を取り巻いていた状況・自然保護システムの「19世紀」的性格(即ち、生前に何が可能であったのか)、そして伝記(研究)が抱えてきたプロット上のある種のバイアスを論ずる。そのうえで、ミューア死後の運動の展開と現在進行系の諸問題を踏まえつつ、ヨセミテ的景観の持った(偏重的とも言える)重要性を明らかにすると同時に、今後の研究の可能性を示してみたい。

* 第220回「歴史と人間」研究会は12月15日(日)、シンポジウムと恒例の忘年会の予定です。
 


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<2019年>
6月1日    ヤコビ茉莉子氏

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